花と万葉歌人

 万葉集中、最も劇的な歌として有名な2首である。額田王は最初、大海人皇子の妻だったが、後に別れて、大海人皇子の兄天智天皇のもとで寵をうけたらしい。

 「紫野」はムラサキ科の多年草ムラサキを栽培している野で、そこは一般の立ち入りを禁じた「標野」であった。「野守」はその番人。「あかね色のムラサキの草の野をあちらへ、標野をこちらへ行き、番人が見ているではありませんか、 あなたが袖を振るのを」と、もとの夫である大海人皇子の動作を、額田王がたしなめている趣である。

 それに答えて大海人皇子は、「ムラサキがにおうように美しいあなたを憎いと思ったら、人妻と知りつつ何で恋をしましょうか」と、返歌している。この2首の設定は、実にスリリングではないか。世に有名なゆえんである。

 しかし、よく考えて見ると、この2首は少々おかしい。二人の唱和歌は、本来内緒ごとのはずである。にもかかわらず、なぜ万葉集に残されているのだろう。二人の死後、歌の草稿のようなものが発見されて、万葉集に転載されたとみる向きもあるけれど、話としてはややでき過ぎの感がある。それゆえ今日では、この2首は、当日薬狩りを終えたあとの宴席で演じられた所作つき(舞など)の即興的唱和歌とみられている。

 とはいえ、2首の値打ちが下がるわけではない。当時最も尊貴なムラサキを支配する大海人皇子と「紫の帯の結び」「紫の我が下紐」「紫のまだらの縵」などなまめかしさを感じさせる、ムラサキにたとえられる額田王との最高の恋物語を、みごとに演出してみせているのである。


扇野聖史著 「万葉花歌」より


イラスト/冨田利雄


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