ウォーク万葉
あかねさす紫の「蒲生野」コース
古代薬狩りの広野をゆく



 あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(1.20) 

 紫の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(1.21) 

 時は天智7年(668)、近江平野に燃えた万葉集随一のラブ・アフェアである。額田王と大海人皇子(即位後、天武天皇)は、かつて結ばれ、十市皇女という娘までなした。彼女もこの年22歳で、すでに天智の息子、大友皇子の妃になっている。

 ただし、天智天皇即位頃、額田王は、大海人から、天智のもとへ、移っていたらしい。作歌年代がわからないが、こんな歌がある。

 額田王、近江天皇を思ひて作る 歌一首
 君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの
簾動かし 秋の風吹く
(4.488/8.1606) 

近江天皇は天智、すなわち天智の後宮にいた証拠というわけだ。

<湖畔の草原に愛を語る二人>

 さて、都は、663年、朝鮮・白村江の敗戦以来、大津に移されていた。
「遊猟」は、5月5日の薬狩りのこと。男は鹿狩りをし、若い鹿の袋角(若さをとりもどす薬とされていたらしい)を取り、女は薬草摘みをするというのだが、実際は宮廷あげての遠足である。蒲生野は御料地であったのだろう。

 薬草摘み、狩りの最中、人目のないところで偶然に出くわした二人、「薬草摘みに紫野を、標野(しるしをした土地=禁足地)を私はやってきた。ああ、あなたが馬の上から袖を振っている。すてきだわ、でも、番人が見ていたら、どうしましょう」「紫が匂うように美しいあなたを憎ければ、人妻と知りながらどうして恋しようか」と歌いかわしたと言うのだが...。素直に読めば、「野守(天智?)の目をしのんでの二人の恋」だ。ところが、「二人とも四十歳前後になっていて、こんなに情熱的な恋ができるわけがない。遊猟後の宴会での天智を前にして詠みかわした座興の歌だ」と主張する人もある。


季刊誌「ウォーク万葉
 遊猟最中で作ったのか、それとも宴会での歌か、また、額田王は天智・大海人どちらの妻であったのか、どちらを本当に愛していたか、の組み合わせで幾通りもの解釈ができる。しかし、何分にも、額田王は、経歴も出自もわからない謎の人物だけに結論がでないのも仕方がない。

 それならば、我々歩く者は、湖畔に広がる草原に、愛を語る二人を想像したほうがよいようだ。

滋賀県

<歌碑が立つ船岡山>

 古代の蒲生野は名は、現在でも、蒲生郡、蒲生町の名に引きつがれているし、八日市市、蒲生郡安土町に「蒲生野」の名が散在し、輪郭ははっきりしないが、この一帯であることは間違いない。二人の贈答歌を刻んだ歌碑が、船岡山に立つが、これは、地元の研究会「蒲生野顕彰会」が地名等を調査し1300年記念に建てたものだ。

 船岡山は、孤立した、小高い丘で、三方に平野が広々と開けている。木々のすきまから、近江平野を眺めることができる。


船岡山の万葉歌碑
 ところで古代の蒲生野は、どんな姿だっただろう。「紫野ゆき 標野ゆき」と歌われているから、全くの原野ではない。染料の原料として、むらさきが栽培され、「標野」は、薬草園として経営されていたのかもしれない。さて、染色の技術は、渡来人たちによってもたらされたものだ。近江のこの一帯は、渡来人が多く住んだ土地という。その歴史は古いが、白村江敗戦後、日本に亡命した百済人たちが、都に近いこの地域に多く住みついたかもしれない。彼らは、ここで紫の栽培、染色、そして最新のファッションを宮廷にもたらしていたのであろう。


<阿賀神社から蒲生野を一望>

 蒲生野の北方には、箕作山(みづくりやま)の丘陵が構えている。山麓づたいに歩けば、太郎坊宮と呼ばれる阿賀神社に至る。ここから蒲生野が一望できる、素晴らしい場所だ。さらに、箕作山山頂近くに上ると、瓦屋寺がある。瓦屋寺は、聖徳太子が、四天王寺に使う瓦をこの地で焼き、後に寺にしたのだと伝える。阿賀神社も、やはり、その時の創建だそうだ。陶器の技術は、やはり渡来人のもの。この人たちによって当地から、日本文化の最先端がうみだされていたのである。


太郎坊より蒲生野を一望
 こうしてみると、蒲生野は、単なる恋愛の舞台ではない。我々は、額田王と大海人のロマンと共に、古代日本文化の流行を生みだした。最もハイカラな土地を歩いたことになる。



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